地元の出身者だけにとどまらず、この地域外から通って2拠点で活動しているスタッフもいます。多種多様な人が集って構成されてます。人との出会いは、「ご縁」によるところが大きいと思っており、ちょっとした事がきっかけになってこの場所にいるスタッフも多いです。それぞれのスタッフが互いに、思いやりと敬意を持って働く事ができたらいいなぁと思ってます。
18歳、19歳の自分にはこれという明確な目標もなく、なんとなくひとの役にたてたらなぁという思いで広島県立保健福祉大学放射線学科(放射線技師の養成学科)に通っていました。大学は、看護師、理学療法士、作業療法士などコメディカルを養成する大学でした。
大好きだった祖父が病院で亡くなりました。小さい頃から、海に川に毎週のように連れて行ってもらい、とてつもないじいちゃん子だった自身にとって、大きなイベントでした。入院生活に付き添っていた家族の中からは、「言いたいこと、思っている事を、医師に伝える事が難しい」という話を聞いており、そのわだかまりが残りました。葬式の後、田舎の風習で親戚、近所の方が家に集まって食事会をしました。
想い出話に花を咲かせる中、ひょんなことから医療の話が白熱しました。医療に寄り添ってもらえないと感じてる人はたくさんいる。伝えたい事を伝えられない、話を聞いてもらえないと悔しい思いをしている人はいっぱいいる。そんな現状を目の当たりにしました。頼る事ができる病院が少ない田舎で、医師や看護師はどうして気持ちを汲み取って接してくれないのか。医療は、もっと患者や患者家族に「やさしく」たっていいじゃないか。そんな想いが若かりし自分の心に火をつけました。
大学卒業後、2年の浪人を経て、高知大学医学部に入学しました。合縁奇縁。「病気を見るのではなく人を診ることが大切だよ」という教えの師に恵まれ、土佐の地で、住民の方と濃く触れ合いながら医学生生活を送りました。祖父が花鰹(カツオの削り節)の修行をしたのも高知県であり、運命を感じました。
大阪での初期研修を終え、後期研修の一年目に父親が亡くなりました。自分の目指す「やさしい医療」は、地元の田舎でも学べる、実践できるのではないかという思いから、後期研修を中止し地元の中核病院である紀南病院へ就職しました。
念願であった医師生活を、大阪、地元で経験しつつ……
実際、医者になってみると、思い描いていた程うまくはいきませんでした。外来にキャパを超える患者がくると、ひとりひとりの話も十分には聞けないなぁと思うこともあるし、待たせてるって状況もストレスたまる。入院の受け持ち患者のもとにいける時間にも限りがあるし。もっと患者さんのこと知りたいな~と思ってもなかなか難しい。おまけにほとんど徹夜で働く当直が週1回以上のペースで回ってきて、体力を大幅に削られるので、心の余裕も少なくなる。イライラしてしまいそうになる自分の手綱を引いて、家族の前で無口になる自分に目を瞑って……。
中核病院でしばらく働くと、病院の立ち位置や、医療資源の問題、実際のリアルな部分もたくさん見えてきました。
言い訳や、正当化できる理由はたくさんある。
でも、自分自身に、「まずまずうまくやってるよね。」って語りかけても、
やさしくない自分の存在を心はちゃんと知っていて。ちょっと凹む。
もっと患者さんの話が聞けたらよかったなぁ。もっと寄り添えんかったかなぁ。
小さなササクレがチクっと刺さって、なかなか抜けない。
頭を悩ませている間に、大学の医師仲間たちもそれぞれの病院で奮闘していました。その中に、職場で仕事を継続するのが難しく退職するものや、医師という職業から離れる仲間たちも出てきました。あんなに一緒にイイ医療がしたいねぇ~、と語ってたにも関わらず。
「やさしい医療」の実現は、自分の心掛けではなくて、「想い」と「スタッフ」を守る仕組みが必要だと強く感じるようになりました。
誰かのためになればとか、人の役に立てたらという想いで医療職についた人が多いはずで、その想いが実現できない医療があるとしたら、それはシステムの問題でもあるな、と。
「想い」を育む農場みたいなものを
答えのない答えを追い求めたい。
「やさしい医療」の実現、そのために。
実践している先輩、同じように頭を悩ませている同志、学生。
同じ想いをもった人達と、あーでもない、こーでもないと頭を悩ませたいと思っています。
そもそもやさしい医療って何? の根本的なところから、
実現に向けた取り組みまで。
精神論ではなく、具体的な方法で
理想論ではなく、現実的な方法で
可能な限り、実現したい。
そんな想いで「やさしい医療をもんどうする」ホームページができました。
一緒に「やさしい医療」を『問答』しましょう!
くまのなる在宅診療所 濱口政也